“ココ”とジブンのつなぎ方
学校蔵の特別授業2022

DAY:2022.6.26 現場レポート たまきゆきこ(学校蔵雑芸員)

 

 8回目を数える・佐渡旧三川小学校「学校蔵」での特別授業。
 今年は、例年より少し遅めの6月の後半に開催されました。
 海の碧も木々の翠も強さを増し、田んぼの苗もすっと伸びていたこのころ。
 学校蔵は、かつて校長室だった、海が一番よく見える部屋(校長先生、良い場所過ぎませんか?と思わず言いたくなるようなオーシャンビュー)がカフェになり、窓越しの陽の耀きを見ているだけで、なんだかすぅっと力をもらえるような空間です。

 今回も、充実の特別な授業。昨年に続き、オンラインでの開催となりましたが、ここでしか聞けない、講師の方々のお話。
 昨年テーマは、「ココからつくる未来」。
 そして、今年はその続き。見つけた大切な場所、である“ココ”と、自分の位置を考える。
 講師の藻谷浩介さん(日本総合研究所主席研究員)、半藤将代さん(カナダ観光局日本地区代表)、ウスビ・サコさん(京都精華大学前学長・全学研究機構長/情報館館長)のお三方は、実際に佐渡まで足を運ばれての、学校蔵での授業でした。
 画面の向こうのたくさんの受講生の方々の想いを考えながら、次回はココでみんなと会しながら、を願いつつ…メモ取り係・雑芸員たまき、講師の方々の知見に満ちたお話をたっぷりと伺わせていただきました。


◆1限目講師:藻谷浩介さん

 この日の朝、真野湾のあたりを歩かれた藻谷さんは、今朝の真野湾、学校蔵の写真からお話をスタート。実際に自分の足で歩いていくことで気づくこと、目線の高さを同じにしたら何が見えるか、を先ず感じることからの1限目です。
 事実と数字・データを捉えることの大切さをいつも最初に、参加者に共有される藻谷さん。「あなたにとって佐渡島は?」
 思っていたより広い。船で渡るから行きにくい。等の印象がある一方で、 住みたい場所かとの問いには、「いつかは住んでもいい」といった答えが一定数あることや、地図で確認すると仙台やアテネと緯度がほぼ同じであること等、なんとなくそうなんじゃないの、といった自分のなかで自分が作っている尺度へのリセットを促すようなお話がテンポよく進みます。
 「箱庭のような日本。これは、世界的にみて極めて稀なこと。」
 そうでした。ユーラシアプレートの東端にある日本。太平洋プレートが沈み込むときに引っ張られて地殻が割れ、そこに海水が流れ込んで日本海が生まれ、やがて大陸と分離して島となったところ。周囲を海に囲まれている日本は、冬はシベリアから、夏は太平洋から風が吹いて、雨も一年を通して降る。雨水と川の流れが山を削り、河口の平地や、内陸部の盆地を形作ってきた。けれども、雨水と川が岩を削る浸食は、何億年も続いた海水の激しい地殻浸食とは比べようもなくて、「箱庭」のように狭くて緑豊かな地形がつくられていった… 日本の地形、成り立ちを改めて考えてみると、さらにその縮図のような佐渡島は、箱庭の箱庭、のようなところなんだと、藻谷さんのお話を伺いながら、地図という情報に、時間軸をはめていくことの面白さを想像し、ワクワク度上がりっ放しです。
 続けて、藻谷さんからは「口からではなく身体から出ている言葉」、「他の意見に左右されず、場(空間と捉えると判りやすいのかな?)に根差して話す」こと、そして、そのお話に自身が共感できる場合、自己実現に向かって絶えず成長していくとした「マズローの5段階欲求論」ならぬ、「3×2+1の7段階欲求:藻谷論」が成り立つ、とお話を続けます。「私(個)」としての3つの欲求に、素数、割り切れない数字になる+1、をくりかえしていくことで、かけがえのない関係性をつくっていける、関係性をつなげていける、と。
  プラス1、とは、ともすれば余計な、雑音のような…効率的でないもの、ということかもしれません。けれども、そうした異物のようなものを、身体の中に、感情の奥に、しっかりと抱きかかえながら、かけがえのない人間関係を築いていくことができるかどうか。それが、実感をもって今、ここにいる、ことの一つの証ではないのだろうか。ホームグラウンド、とは、そこに住んでいるかどうかのみではなく、そこである程度の役割を自分が果たせているかどうか。その役割とは、同調・同化、順化することではなく、むしろ、自分のどこかに異物や異質なもの、でこぼこがあることで、その土地に、ここ、につながるタッチポイントを多くすることができるのではないのだろうか。
 藻谷さんの7段階素数必要論(と勝手に呼ばせていただきます)は、体幹を強くするということと、固定する、ことは、身体の使い方がまったく違うのだと、改めて自分のココ、を考えるうえで何が重要かを考えるヒントがたくさん詰まっていて。
 「Fact Finder&Structure Perceiver/事実発見&構造把握業」と自己紹介される藻谷さんならではの、構造を把握するための思考のヒント、キーワードがたくさんちりばめられていた、1限目でした。

  

◆2限目講師:半藤将代さん

 昔から住んでいた先住民と、世界中からやってきてカナダをふるさとと呼ぶようになった移民たちによって構成される、多文化主義の国・カナダ。
 半藤さんがスライドの1枚目に用意してくださった、北アメリカ大陸のなかのカナダの各州を記した地図をみながら、まっすぐな線が引かれている州境と、入りくんだ北の湾岸、島嶼部のぎざぎさ、とにしばらく見入ってしまいました。堆積丘の如き日本とは、立っている大地の成り立ちが全く違う…。
 遠く離れている、と思ってきたカナダでしたが、半藤さんは「太平洋を挟んで隣にある」と。そんな捉え方をしたら面白いことがたくさん見つけられるように思えます。お隣の人、としてのカナダ、ですね。
 特に日本人にもよく知られている、プリンスエドワード島は「赤毛のアン」シリーズを書いた、L・M・モンゴメリが住んでいた島。アンのシリーズに描かれる人物のなかで、養母のマリラって結構好きだったんだけどな… と、ちょっと授業のお話とは逸れ、シリーズを読んでいた頃にワープしつつ。女の子なんて欲しくなかったんだって言ってしまうところも、アンが無実の罪で周りから責められ「孤児だから」と言われたときに誰よりも激怒し庇ってくれるところも… 現実主義のようでいて忘れられない何かを抱え続けてきたような彼女の言動と、アンの夢のお話との間の揺れみたいなところが、好きだったのかもしれないなぁと。そんなことを思ったのは、モンゴメリが小説の中で世界一美しいと著した島と、学校蔵の窓の外の風に揺れている木々の緑とがシンクロしていったからなのかもしれません。
 半藤さんは、リピート率8割というこの島がどうして訪れた人にとって「大切な場所になる」のかを、実際の様子を紹介しながらお話してくださいました。
 物語の中で出てくる道の名前等があり、アンやギルバート、ダイアナたちの物語のなかの描写に重なりあうような景観や文化・習慣、そして、食べ物のおいしさが人々を惹きつける、美食の島。シェフを育てる学校もある、と半藤さん。そのシェフたちが最も大切と思っていることは「コミュニティ」。生産者との関係を最も大切にし農家に直接赴くシェフたち。単に食材の調達先としてではなく、自然自体がマーケットという考え方と、オーガニック農家を支援するプログラム。
 赤毛のアンが出版され100年以上が経っていても、島の風景や食、コミュニティはほとんど変わっていない。それは変えないという島の人たちの想いがあるからであって、訪れる者はたんに「赤毛のアンの世界」に浸るだけではなく、作品に描かれた風景やコミュニティを守っている島の人たちが大切にしている価値観といった、島の変わらない風景や暮らしを体験していく… アイコンと言われている定番観光プロダクトの周辺にあるこうしたストーリーや深い体験をどう共感していけるのか… 土地の成り立ちには、人々が“ココ”で生きてきたことの証が織り込まれている。それを実際に体験するということは、五感を使うということ。歩いて、みて、聞いて、話して…食べて。
 今は、世界各地のここにしかない品を、今自分が居るところで食べることもできます。それをなぜ、そこにわざわざ出向いて食べるのか。地域の逸品が、とびきり美味しいのはもちろんのことであって、それだけではないものを。カナダであれば、例えばサーモンには、生態系を守る取り組みがあって、サーモンを中心とした西海岸の先住民の文化があって、日系移民がサーモンを求めてやってきた歴史があって、熊やシャチなど、豊かな森と海をつなぐ役割を、サーモンが担っていることを知る機会としての、「餐」「饗」がある。
 「餐」という文字は、「食(たべる)+粲(白い米)」の会意文字。めったに食べることのできないご馳走であった白米を食べることから。「饗」という文字は、心を込めてもてなすこと、ごちそうを真ん中にして人と人が向かい合っている象形がかんむり、食器に食べ物をもりそれにふたをした象形がつくり、の郷+食の会意兼形声文字。卓を囲んで、心を尽くしたおもてなしとして、向かい合って食べること。生きることにつながる「食べる“こと”」があって、それは「食べる“もの”」があるというだけではコミュニティの成立には至らない… モノがコト化するには、向かい合うことが必要… 佐渡島とカナダから考える、ココと自分をつなぐ術とは、そういうことなのかもしれないなぁ。
 カナダの美しい風景やおいしそうな料理、そして、笑顔の人たちがたくさん写っている半藤さんのプレゼンスライドの数々をみながら、分かち合ってつながっていけるような機会に自分自身はどう関わろうとしているのか、を改めて考える機会をいただいた2限目でした。

  

◆3限目講師:ウスビ・サコさん

 マリの時間は、午前中、午後、夕方。
私たちは世界地図をどうみているか。地図とは、もしかしたら先入観を与えてしまうもの。アフリカの地図は、アフリカの人にとって望んでいる地図の描かれ方なのだろうか?
 日本の高騰教育機関において初めてマリ共和国出身者が学長に。「マリアン・ジャパニーズ」と自らを紹介される、サコさんは空間人類学がご専門。どんな学問なのでしょうか?と不躾な私の問いにも、建築がもともとの専攻ですよ、と。国や地域によって異なる環境やコミュニティと空間との関係性を研究し、暮らしの身近な視点から、多様な価値観を認めあう社会のありかたを提唱されているサコさんの、空間を捉える力の鋭さは、両津港から学校蔵までご一緒させていただいた車中でのお話や、佐渡の景観やまちなみへの眼差し等からも、しっかり伝わってきました。
  高校卒業後国費留学生として中国へ留学、六四天安門事件のあと、京都へ。博士号(工学)取得、日本国籍取得ののち、京都精華大で教員、学部長を経て学長に就任。多民族国家であるマリ共和国の複数の言語はもとより、英語、フランス語、中国語、日本語… そしたらなぁ〜 なんでやねん〜、とユーモアセンス抜群のサコさんのお話は、軽妙な関西弁のテンポと平易な言葉に、ぐんぐんと引き込まれてしまいますが、そうした分かりやすいお話のなかに、それはどういうことを意味しているのでしょうか…と、後になって、ゆっくりとかみしめて反芻していかないと、さらりと流れて気づかずに逃してしまいそうな、重くて深くて、幾重にも折り重なる課題の提起がなされてゆきます。
 「私は何者か」「グローバル社会と自分のつながり」… ご自身が実際に経験されてきた、異文化のなかの己、への問いかけは、“ココ”とはどこでしょうか。
“ココ”とは「コミュニティ」だとしたら、みなさんにとってのコミュニティとは? どの社会のことでしょうか…
 サコさんは、コミュニティとは構造的なものではなく、世界の様々な“ココ”は、ずっといたい場所。我々の土地、のこと、だと。私たちの“ココ”は、畑仕事終わって、みんなでダンスをすること… 場として+(プラス)何かしらの行為を誰かと行うということ、が“ココ”だと。
 建築がご専門のサコさんは、“ココ”を殺していったのが日本の近大建築、とも指摘します。本来、その土地の気候風土によってつくられているのが建築。それは、マリであれば中庭のある家。よくわからない親戚もともに住む家。空間と社会とが共にあるから「ココ」になるのであって、他者と出会うことで自分を再発見すること、そのための空間、場としての建築は、多様な文化の受容と異文化認識とを体感する機会を創るもの。
 フランク・ロイド・ライト、ル・コルビュジエと並ぶ近代建築の巨匠、ミース・ファン・デル・ローエ。ミースは「ユニバーサル・スペース」という、内部空間を柱や壁と言った構造材で限定せずに自由に使えるようにした空間概念を提唱し、原広司はこれらを「均質空間」と訳している。20世紀において、限られた土地に効率的に使い、空間の広さや風や光をコントロール可能にし、オフィスビルなどには非常に適した概念。今日、私たちが目にする市街地再開発エリア等に屹立する高層建築はこの概念を踏襲して作られていると言っても過言ではなく、合理的、効率的なこれらの建造物は、現代の私たちにとって意識する必要がない程に日常化している。鉄とガラス、コンクリートを多く用いた、透明で均質な建築。まさに、ローコンテクストな空間。「Less is more.」そして「God is in the details.」。シンプルなデザインを追求することにより、より美しく豊かな空間が生まれるというミースの建築家としての本来の思想はおそらく、高層巨大建築ではヒューマンスケールでの空間体験やディテールの精密さを感じることは難しく、効率性が優先された結果の建築物が、今や私たちの周囲に屹立している。
 gentrificationされることではなく、まちは売るものではない。そこには“ココ”が無い、とサコさん。

 当たり前が通じない社会に行く、ということが「旅」であって、そこでは、他者を受け入れることができる、受け入れざるを得ない。均質空間を訪ねる旅ではなく、異質な空間に入り込む旅。そのことは、自分自身の“ココ”の再認識にもつながる。そして、サコさんは、“ココ”と私たちが概念として抱いている「ふるさと」を語るということについて、そこにいないときに語る。いないから言える。それは関わりといえるのか…。自分がここの変化に関わりたいと想えるところ、自分がそこを変えてもいいと想えるところ。そこが“ココ”ではないか、と。 
 京都という、超ハイコンテクストな地域に身を置き、暮らしながら、お互いを認め合い高め合うこと、同化することではなく良い意味で譲り合うことを、絶えず考え行動されるなかで、地域に長く生きてきた人々が大切と考えている伝統を進化させるということの難しさも、おそらくは非常に深く思慮しながら、自らが選択した答えを言葉にして伝えるということ。けれど、その答えは、自分のまちがいをつたえる、ということであるということ。
 「コミュニティデザイン」は、多様な人々が集まって、みんなで話し合いながら自分たちの未来をデザインしていくという行為でありたいし、それは、プロフェッショナルだけでやるデザインではなくて、アマチュアもたくさん集まり、プロも手伝いながらやる、コミュナルな(共同の)デザイン。それは、モノに限らず、将来の生活とかビジョン、活動なども描いていけるし、目に見えるものだけでなく、行動とか思考のところまで広げていくこと。時間を「モノ」として扱うのではなく、「コト」として扱いたい。
 人とひととの間の風の流れを把握する力と空間を捉える力。その人が今生きていることへのルーツをたどることは、空間が紡ぎだす人と人との距離感を再認識することでもあるように思います。あいまいな領域を、マージナルな空間を是とする、ということ。
 文化人類学者レヴィ=ストロースは、その文化の中で育ったものでなければ、その内奥にまでは、到達できないし、諸文化は、その本質において、共通の尺度で測ることはできないと論じています。共通の尺度で測れない、同化はできないからゆえに、異質であることを互いに尊重し合えるか、そうでないのか… 。
 文化人類学の手法を用いて空間を研究する空間人類学の視点から、地域の日常を見つめること。ハイコンテクストの国、日本で、空気を読む、ということへの様々な疑問を実経験に基づき論じておられるサコさんの、あるインタビュー記事にこのような一文がありました(※「Science Portal」2022.5.6配信) 『自分たちが遅れ始めていることにもなかなか気付けないんです。つまり自己認識が不足しているということ。これからはあらゆる面で物事の定義が変わる可能性が高い。アメリカやフランスも高齢化は進んでいますが、留学生が介護を住み込みで担う制度が設けられています。留学生からすれば、衣食住の保証を得られることになる。外国人の存在によって社会が良くなっていくという意識は、日本ではなかなか広まりません。でも、もうグローバルな時代なので、別の文化圏の人と互いに助け合ってつながっていくことに、アドバンテージを見出していけるといいですよね。  
 「ダイバーシティ」には、放っておいてもなるんです。この先の社会は必ず多様化していく。それであれば、多様化した社会をどう機能させるかが重要ですよね。外国人は「労働力」ではなく、それぞれに心がある人間です。その人たちをどう大切にしていくのか。そういう考え方をしていかないと、多様性のある社会を機能させられないと思います。

 必要なのは、それぞれが相手を思って歩み寄ること。先入観抜きにコミュニケーションをとって、実践していくことが大切です。日本は気軽にコミュニケーションできるオープンな場があまりない。コミュニケーションを取るのに理由なんていらないのです。地域の帰属意識が湧くような場を増やすことが重要なのではないでしょうか。』  
 留学時、サコさんは互いに得意な教科を教え合うことで成績を伸ばしてきた、いわば能力のシェアですよ、と。「社会とはこのように人と人の知識を組み合わせて力にすることでまわっているのだということを、私は仲間との活動を通じて理解していきました。私は大切な人たちが身を寄せられる木陰になりたい。その木陰にいる人たちが幸せに過ごせるなら、強い日差しを浴びたり、雨に濡れても私は立ち上がれます。それが自分の幸せにつながるからです。」
 漢文学者・白川静氏の論文の一節に
 「神話の体系は、異質的なものとの接触によって豊かなものとなり、その展開が促される、それには摂受による統一もあり、拒否による闘争もあるが、要するに単一の体験のみでは、十分な体系化は困難なようである。そのため孤立的な生活圏は、神話にとってしばしば不毛に終わる。」(『中国の神話』)」
 さまざまな出会いや軋轢の中で神話はより豊かになっていく… 神話を、それぞれの文化、生活、暮らし、社会・コミュニティ、と置き換えていくと、“ココ”は、異質なものとのふれあいが多いほど、ずっといたい豊かな場所、となり得るように思えます。

 初夏の波の音は、こどものころ浮き輪に身をゆだねて波間に揺れていたときのおっきな何かに包まれていることの甘やかさと安堵とを思いださせてくれるようで。改めて、この学校で日々を過ごしてきた人たちにとって、この空間が閉じられたものにならずに、“ココ”にあり続けていることの意味を考えた、2022年の特別授業。
 「つくりたい社会」ではなく、科学技術に限定されて「つくられる社会」が出現してしまうことへの危機感を、私たちは今どれほど感じているのでしょうか。そうならないために必要な「社会を想像する力」は、歴史や哲学を通した自己認識から起こってくるもの。共通の尺度で測ることができないこと、が尊いのだということ。
 ひとりの大人として文化や責任を纏ったわたしと、いのちとしてのわたしがいる、という事実。体幹がしっかりしている、ってこと、ぶれない、ってことと、動かないってことって、似ているようで全く違いますね。

 

【おまけ】

 特別授業の前に、サコさんたちと小木・宿根木を歩きました。
 石置木羽葺屋根は、宿根木の伝統的建造物の特徴の一つですが、サコさんは、置かれている石には何かしらの意味があるのでは、と。
 風の強い海沿いの集落で板葺きの屋根を押さえるために置かれ、瓦が普及する前の時代のもの、と説明にはありますが、サコさんの一言から、古い昔から人々は神殿や石像などのように、ずっとそのままの形でいて欲しい物に石を用い、その輝きや色に、祈りや守護の力を感じてきた、ゆえに、ここでも、家の屋根に石が置かれてきたのではないか…と。
 空間人類学、そういうことなんだ… 異なる文化や風習に対する自分のなかの認識を、時間軸と空間軸と関係軸の組み合わせによって、異なるもののなかの同質性を捉えてみようとすること、なんだなぁ。

文責:雑芸員・たまき ゆきこ

(2020.9.3越後妻有大地の芸術祭・京都精華大学枯木又プロジェクトの一環として開催された、ウスビ・サコさん講演会でのお話も踏まえ、一部加筆させていただきました。)

 

【見逃し配信について】